| 2003年12月10日(水) 「テロに屈しない」、「テロとの戦い」と言いますが、これはいったいどういう意味なのでしょう。ずっと考え続けていますが、やはりよくわかりません。「テロ」というのは、「テロリズム」のことでしょう。「テロリズム」というのは、「暴力に対する脅威、恐怖心を煽ることで、世論を操作する交渉方法のこと」だと解釈しているのですが、これは間違いでしょうか?
わたくしの解釈では、相手からの暴力行使を脅威と見なし、正常な、正当な対外交渉法を変更し、暴力的交渉法を採用した時点で、既に「テロリズムに屈している」と言わざるを得ません。
「テロリズムとの戦い」というのは、文字通り解釈すれば、「あらゆる暴力を脅威と見なさない」という精神の維持ということに尽きるのではないでしょうか?
暴力とは、本当に恐ろしいものでしょうか?
極めて個人的なレヴェルで、もう一度暴力と立ち向かわなければなりません。
わたくしは、恐怖や不安を軽視しているのではありません。恐怖や不安は、対人関係に必ず付き纏います。しかしながら、対人関係とは、常に恐怖や不安を軽減していく方向でないと進みません。それは、自分自身の中に生じた不安や恐怖との戦いです。反対に、恐れを抱かされた相手に対して、さらなる恐怖を与えることで相手を抑止しようとしても、対人関係のストレスは増すばかりでしょう。
わたくしは、昨年のロシアにおける劇場占拠型のテロを思い出します。たくさんの犠牲者を出し、「事件」は「解決」し、プーチン大統領も多くの支持を集めました。あの一連のロシア政府の対応を、わたくしは今でもそのまま飲み込むことが出来ません。当事者でないから、そんなことを言っていられるのだ、と思われるかもしれませんが、わたくしは、あらゆる国の政治的判断というものが、今現在のわたくしの生活になんらかの影響を与えているのですから、自分は当事者だと思っています。
人質を捕られた際の交渉術に関しては、恐らく日夜研究され、進化していっているものと思われます。それでも、多くの人質事件の場合において、最終決断が必要とされます。この決断においてですが、あの時のロシア政府の対応も、救出より解決を優先したとしか思えないのです。
わたくしは、常に大統領や首相などが政治的決断を迫られた時、なるべくそれらの人たちの立場に立って、その心を理解しようと努めます。
しかし、やはり一国民として言えることは、「解決できないということを恐れないでほしい」ということだけなのです。「テロリズムを恐れない」のと同時に「アメリカ一国支配」など恐れるに足らないことだと、わたくしは、まずはともかく自分自身に言い聞かせるのです。「テロリズムとの戦い」も、「大国アメリカからの自立」も、自分自身の中に芽生える恐怖心と向き合うことからしか始まりません。外交とは対人関係の延長にあるものではないでしょうか。そして外交は、すべての人々が日々向き合っているものと、直接繋がっています。
わたくしは、「イラク復興支援のための派兵」という首相の表現を、どうしても言葉通りに受け止めることが出来ないのです。
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