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2003年12月9日(火)

現在、フジテレビで放映されているドラマ『白い巨塔』(脚本:井上由美子、主演:唐沢寿明)は、「顔から火が出るほど恥ずかしい」とか「体全身が震えるほど悔しい」といった長らく忘れていた感情を思い出させてくれる。まさにドラマを観る醍醐味であろう。わたくしはドラマなどを観る時、完全に集中して、劇世界に入り込んでしまうことが稀ではないので、このような激しいドラマは、心底疲れる。観終えた後、しばし自分のダークサイドとも向き合わねばならない。だが、よいのだ。それを望んでいるのだから。
NHKの大河ドラマ『武蔵』は、最悪の最終回を迎えた。じきに総集編も放送されるだろうに、最終回が既に総集編のようなものだった。最終回に相応しいドラマなどこれっぽっちもなかったのである。だいたい、今回の大河ドラマの売りは、今まで描かれたことのない晩年の武蔵を描いてくれるはずではなかったのか?それが、大阪夏の陣から「五輪書」執筆まで一瞬で飛んでしまうとはどういうことなのか?夏の陣の後、どのように身を振り、仕官するに到ったかそれが観たかったのですよ。
全編に渡って展開される、「権勢に頼らず、おもねらず、己一人の力で生きていく」というテーマと、「人は一人では生きていけない」というテーマに何がしかの決着が付きましたか?迷って生きるのはいいんです。そういう回は見ごたえがありましたよ。しかし、二つの矛盾するテーマをそのまま結論として提示されても、何の意味もありません。
やはり、あまりにも低視聴率ではダメでしょうか?
とてつもなく緊迫したいい回は、何回もありました。だけれど、結末への見通しを立てずにドンドン筋を変えていくのはいかがなものでしょう。
広末涼子さんがゲストで出た回に、少しでも意味がありましたか?
貴重な一回を全く必要のないエピソードに割く意味は本当にあったのでしょうか?
ドラマというのは、全編を通して観る人を中心の対象として制作できないものでしょうか?
これでは、日テレの視聴率買収事件など他人事ではないですね。日テレが春の帯ドラマを低視聴率を理由に一回分早く打ち切っていたのを愚かなことだと思っていましたが、夏のドラマでは、今度はTBSが三本のドラマを一回分減らして打ち切ってしまいました。これも以前書きましたが、全く馬鹿げたことだったと思います。
今回のNHKの制作方針には、本当に失望しました。
別に奇麗事を言いたい訳ではないですが、もういいかげん視聴率以外の基準を設けないと本当にダメになります。
米国製の『ER』や『ホワイトハウス』シリーズを観ていると、TVシリーズドラマにしか出来ないことが、いっぱいあることを痛感します。その洗練度は、近年のハリウッド映画の水準を遥かに凌いでいます。

日テレが春に途中で打ち切ったドラマと同じ枠で、現在放送している『ライオン先生』。このドラマも低視聴率にあえいでいるようですが、回を重ねる毎に良くなっています。アドリブかとも思える長いシーンがあったり、一対一の対話のシーンで全く切り返しをしない(一方の人はずっと後頭部だけが写っているということ)、など一見素人臭い演出なのだけれど、これが実に効果をあげているのです。面と向かって相手に話しかけたり、相手の話を聞いている人の顔に、画面には写っていない相手の人の顔に表れる感情が、鏡のように反映されているのです。竹中直人さん、渡辺いっけいさん、段田安則さんなど、ともすると似たタイプの役柄で使われがちな役者さんたちに、通常の芝居から一段階突っ込んだ演技を引き出していると思います。(西村雅彦さんが、何故かあまりこの芝居に溶け込めていないように思えますが・・・)岡本綾さん、小池栄子さんも力を存分に発揮しています。人の顔をじっくり観ようとする演出にとても共感します。
このドラマでは、「人と面と向かって話すということ」を実に興味深く見せてくれていると思えます。とりあえず、打ち切りの憂き目には遭わずに済んだようですが、予告編では最終回におざなりな雰囲気が漂っていて、少々不安です。
また、よく知らないのですが、SOUL'd OUTによる主題歌とLyricoによるエンディング・テーマ。いい曲ですね。柄にもない話ですが。
このドラマで結構長いカットを見せられて逆に思うのですが、『白い巨塔』で、編集によって緊迫感を盛り上げるような演出がなされているのを、もう少し控えめにできないものでしょうか。既に役者さんから十全な芝居を引き出せているのですから、編集による心理的演出は、逆効果のような気が致します。

陰険なようだけれど、もう一度『武蔵』の話に戻ります。脚本の鎌田敏夫さんが、リサーチする過程で、宮本武蔵よりも柳生宗矩に共感していったのでないだろうか、ということは推測の域をでませんが、それだと、よほど吉川英治氏の原作は足枷になったことでしょう。
吉川英治版からは、そろそろ離れるべき時期に来ているのでしょう。
ハイ・ヴィジョンのデモンストレーションの意味もあるのでしょうが、宮沢りえさんや和久井映見さんが、ほとんど普段目にすることのないような見事な着物を着て登場する度に、驚きと共に、心から堪能させてもらいました。あのような立派な着物が似合う女優さんがいらっしゃる事自体嬉しいものです。
数々の決闘シーンも、TVとしてはかなり健闘していましたし、アクションではなく、心理的な緊迫感は相当のものでした。しかし、もうTV時代劇で合戦シーンなど必要ないのではないでしょうか。

かつて5年かけて制作された代表的な映画版『宮本武蔵』(内田吐夢監督)の脚本を内田監督と共に担当した鈴木尚之さんは、この作品が新人としての大抜擢でした。その鈴木尚之さんが後に手がけたのが、TVドラマの一つの頂点を極めた故田宮二郎さん主演版の『白い巨塔』であったのです。鈴木さんの息の長いダイナミックなドラマトゥルギーは今でも色褪せることはありません。
内田・鈴木版の『宮本武蔵』の完結部、佐々木小次郎を倒して小船で逃げる武蔵の独白を掲げておきましょう。(別にネタバレとはいえないでしょう。)

 武蔵「あれから十年。己の一切を捨て、剣に命を託してきた。」
    「この空虚。」
    「所詮、剣は武器か!」



ドラマそのものが空虚だった、というのではシャレになりませんわな。

2003年12月10日(水)

「テロに屈しない」、「テロとの戦い」と言いますが、これはいったいどういう意味なのでしょう。ずっと考え続けていますが、やはりよくわかりません。「テロ」というのは、「テロリズム」のことでしょう。「テロリズム」というのは、「暴力に対する脅威、恐怖心を煽ることで、世論を操作する交渉方法のこと」だと解釈しているのですが、これは間違いでしょうか?
わたくしの解釈では、相手からの暴力行使を脅威と見なし、正常な、正当な対外交渉法を変更し、暴力的交渉法を採用した時点で、既に「テロリズムに屈している」と言わざるを得ません。
「テロリズムとの戦い」というのは、文字通り解釈すれば、「あらゆる暴力を脅威と見なさない」という精神の維持ということに尽きるのではないでしょうか?


暴力とは、本当に恐ろしいものでしょうか?
極めて個人的なレヴェルで、もう一度暴力と立ち向かわなければなりません。
わたくしは、恐怖や不安を軽視しているのではありません。恐怖や不安は、対人関係に必ず付き纏います。しかしながら、対人関係とは、常に恐怖や不安を軽減していく方向でないと進みません。それは、自分自身の中に生じた不安や恐怖との戦いです。反対に、恐れを抱かされた相手に対して、さらなる恐怖を与えることで相手を抑止しようとしても、対人関係のストレスは増すばかりでしょう。

わたくしは、昨年のロシアにおける劇場占拠型のテロを思い出します。たくさんの犠牲者を出し、「事件」は「解決」し、プーチン大統領も多くの支持を集めました。あの一連のロシア政府の対応を、わたくしは今でもそのまま飲み込むことが出来ません。当事者でないから、そんなことを言っていられるのだ、と思われるかもしれませんが、わたくしは、あらゆる国の政治的判断というものが、今現在のわたくしの生活になんらかの影響を与えているのですから、自分は当事者だと思っています。
人質を捕られた際の交渉術に関しては、恐らく日夜研究され、進化していっているものと思われます。それでも、多くの人質事件の場合において、最終決断が必要とされます。この決断においてですが、あの時のロシア政府の対応も、救出より解決を優先したとしか思えないのです。

わたくしは、常に大統領や首相などが政治的決断を迫られた時、なるべくそれらの人たちの立場に立って、その心を理解しようと努めます。
しかし、やはり一国民として言えることは、「解決できないということを恐れないでほしい」ということだけなのです。「テロリズムを恐れない」のと同時に「アメリカ一国支配」など恐れるに足らないことだと、わたくしは、まずはともかく自分自身に言い聞かせるのです。「テロリズムとの戦い」も、「大国アメリカからの自立」も、自分自身の中に芽生える恐怖心と向き合うことからしか始まりません。外交とは対人関係の延長にあるものではないでしょうか。そして外交は、すべての人々が日々向き合っているものと、直接繋がっています。

わたくしは、「イラク復興支援のための派兵」という首相の表現を、どうしても言葉通りに受け止めることが出来ないのです。

2003年10月の日日覚書     2004年1月の日日覚書

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