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2003年10月4日(土)

図書館で借りてきたCDでカレル・アンチェル(1908−1973)指揮チェコフィルによるストラヴィンスキーの『春の祭典』(1963年録音)を初めて聴く。衝撃!!!
93年発売のCD(COCO-75819)なので、今ならもっと音の良いマスターリングのものが出ているのだろうが、そんなことは、どうでもよい。物凄い集中力、グルーヴ感の演奏だ。
ジェームス・ブラウンの『Live & Lowdown At The Apollo,1962』みたいな演奏と言えばわかってもらえるかしら?(って誰にだよ!)
最近、FMでサイモン・ラトル氏がベルリンフィルを率いて母国イギリスでの凱旋公演となった今年のプロムスでの『春の祭典』を聴いたのだが、これが、今年の前半同じラトル氏がベルリン・フィルの定期で演奏した同曲(これもFM)の演奏と随分印象が違ったので驚いた。ラトル氏は、この曲を18番として度々演奏しているが、基本的にこの曲を「リズムの革命」つまり、作曲の要素としてリズムを自由に扱うことを可能にした作品、として解釈しているらしい。その解釈が定期の演奏では前面に出ていて、どういう風にリズムが組み立てられているかがくっきりわかる演奏になっていたが、一向に感興が湧かなかった。それが、プロムスの演奏では、観客ののりの影響か、リズムに推進力があって、めっぽう面白かったのである。
ストラヴィンスキーは、毎日毎日こつこつとこの曲の作曲作業を進めたと言われていて、緻密に構築された曲であることを裏付ける話として有名だが、そのストラヴィンスキーでさえ、頭の中では、音楽のうねるリズムが鳴っていたに違いないとわたくしは思っている。その頭の中の音楽を限りなく精確に伝えるためにこそ、かれの緻密な作曲作業はあったのだろうと。
アンチェル氏の演奏は、細部が完全に構築されているとは言い難い。しかし、そのリズムの生命には、いまだかつてない迫力、推進力を感じた。これだけグルーヴ感を感じるオーケストラ演奏に出会って、わたくしはこの上なく嬉しく思った。音楽に命を吹き込むのは、やはり演奏者の心意気だ。
アンチェル氏のことは、少ない知識しかなかったので、図書館で雑誌『レコード芸術』のバックナンバーの中から山崎浩太郎さんの連載「20世紀の不滅の大指揮者たち」のアンチェル氏の回を探して、アンチェル氏の経歴を読んだ。
放送局の演奏家からゲットー、収容所へ、そして一人だけの帰還。
まるで、『戦場のピアニスト』のモデルであるピアニストのシュピルマン氏と同じなのだ。
アンチェル氏の場合、更に後年、プラハの春事件で数年間帰国できなくなる。
実は、この生い立ちと、わたくしがレコードから聴きとっていた命の喜びの溢れるようなイメージとは、俄かには結びつかなかった。この違和感は、もっとたくさんのアンチェル氏の演奏録音を聴くことで探っていこう。
しかし、やはり改めて『戦場のピアニスト』という映画は、20世紀におけるクラシック音楽演奏家、という極めて特殊な職業についての言及に物足りないものがあると感じた。この件は稿を改めたい。

             

2003年10月5日(日)

ダニエル・ハーディング指揮マーラー・チェンバー管弦楽団の来日公演の模様をTVで観る。
オール・ベートーヴェン・プロで、『アテネの廃墟』『田園』『運命』の順である。わたくしは、日ごろ、ベートーヴェンの交響曲を3,4曲ぶっ続けて聴くことはよくあるが、少なくとも『田園』の次に『運命』を聴きたいと思ったことはなく、このプログラミングには違和感があった。
以前、やはりこのコンビで『ドン・ジョヴァンニ』をTVで聴いた時、たいへん面白く聴かせてもらったので、期待していたのだが、『田園』は、さっぱり何が伝えたいのかわからない。終楽章へ来てようやく、このオーケストラが出したい音が見えてきたような気がした。さりげない。が、確かに交歓がある。『田園』という曲は本当に難しい曲だ。
多分、『運命』がメインプロなのだろう。これは、実に明快で目が覚めるような演奏だ。冒頭主題をパルスのように奏し、全体がパルスの積み重ねのように構築されていく。そして、これは、わたくしがまだベーレンライター版の総譜を読んだことがないので、何ともいえないのだが、アバード盤など最近の演奏によく聴かれるテヌートとスラーがかかったフレージング。これが、ベーレンライター版のスコアの指示なのだろうか。それにしても、このハーディングの演奏は、パルス的リズムで奏される箇所とスラーのかかった滑らかに奏される箇所の2パターンだけで全体が構成されていて、確かにそれは、構造上は、非常に明確で堅固な感じはするのだけれど、いかんせん単調だ。目が覚めるような演奏などと思いながら、あまりにも心地よく、睡魔に襲われた。
そして、何と、『運命』の後にアンコールで第4番の終楽章である。それはないだろう。と思ったが、まるでハイドンの交響曲のように演奏されるそのアンコールを聴いて、何故か納得してしまった。
わたくしも、好きな演奏、嫌いな演奏などの好みがあるのは勿論だけれど、このように、楽曲の意味が変わっていく瞬間を目撃するのもたいへん興味深いことだ。ベートーヴェンの交響曲が、以前と全く違う社会的ニュアンスで演奏されている。社会的というのは、単なる演奏家の主観的解釈を超えて、観客の受け止める器がそこに形成されているという意味でもある。こういう催事は、進化や退化などという前に、音楽の変容そのものが雄弁さを持ち得る面白い機会ではある。

この放送の後、続けて放映された番宣で、ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送交響楽団の昨年(?)の来日公演の模様をわずか1分足らず紹介してくれた。
ベートーヴェンの第2交響曲の終楽章の終わりのところである。この部分、ベート―ヴェンの交響曲のなかでもユニークな箇所で、かれのチャーミングな一面を垣間見せてくれる。快調なアレグロ・モルトでそのまま終わると思いきや、やおらふてくされたように道草を喰って、また一気にトゥッティになってコーダとなる。(あっ、もう一度とぼけて見せるんだっけか。)どこかオペラ的でもある。
この一気にトゥッティになるところのタイミングが凄い。これが、ノリントン氏の馬鹿力(「ばかぢから」、ではなくて「ばかりょく」)か。唖然として爆笑してしまった。会場で聴いていたら椅子から転げ落ちたであろう。(この間合いがとれるのは、わたくしの知る限り故キース・ムーン氏以外にはいない。)
ま、たった数秒とはいえ、ここを番宣に持ってくるNHKも、なかなか出来る!

    

2003年10月6日(月)

先日まで、週末の興奮の一時を与えてくれていたTVドラマ『TAKEN』の中で、(先日の日記ではあえて触れなかったが)チャーリーのママの役をやっていたジュリー=アン・エメリーという女優さんが、なんともわたくしの好みの顔で(顔が好みというのもまた、身も蓋もない言い草だが)、どうしても気になっていて、ちょこちょこリサーチしていたら、『ER[』に2回も出演している。このシリーズはほとんど観たけれど印象に残っていないなあ、と思っていたら、NHKは最終回の次の週から即再放送というでたらめな編成をしてくれた。これでじっくり確かめられるわいと、ほくそえんでいたところ、かの女の出演分は、今日の放送である。
で、いそいそと観ていたら何と!
【マルッチと女性救急救命士が他の患者と共にエレベーターに閉じ込められ、マルッチはエレベーターの中でカッコつけて急患に逆送管処置をし始めた。女性救急救命士はその処置を手伝わされて、自意識過剰のマルッチといい感じになり、挙句、救急車の中でマルッチとコトに及んでいるところをケリーに目撃され、ケリーは激怒してマルッチを首にしてしまう・・・】という顛末の当事者である救急救命士の役だったのである。
大ショック。
つまり、ちょっとルックスが良くて、結構軽い感じの救急救命士が必要っだったわけだ。
まさに「顔」で選ばれたって感じ。
この救命士は最初の登場シーンでは、髪を束ねて急患(赤ちゃん)を連れてくるが、次のエレベーターのシーンでは、長髪を下ろして何故か女らしさが強調されているのである。初登場のキャラを印象付ける意図はわかるが、ちょっとあざといですよ。この回の演出は、リチャード・ソープさん(あの往年の大監督の息子さん?)。第[シーズンでこの救命士が登場するのは、後1回だけだが、第\シーズンでは、準レギュラーとして、半分余のエピソードに登場するようだ。『ER』シリーズでは、背景に位置する人々の群像も注目に値するので、とりあえず、このキャラがどのように育っていくのかは楽しみだ。

    

2003年10月7日(火)

本当は、サイード氏が亡くなった時、追悼として最も聴きたかった曲、ブラームスの『主題と変奏ニ短調』のCDが、図書館に戻ってきていたので借りてきた。同じ事を思った人がいたのだろう。先週わたくしは専らこの『主題と変奏』の元になった『弦楽六重奏曲第1番』のアマデウスQ.とアルバン・ベルクQ.の合同演奏会のCDを聴いていた。これはお馴染みの曲だが、『音楽のエラボレーション』でサイード氏が想起していたことが、今ひとつよく解らない。だが、やはりこの『主題と変奏』という曲、わたくしは(多分)初めて聴いたのだが、かなり強力な印象を残す曲だ。ブラームスの曲の中でもとりわけ有名な弦六一番の第2楽章(これはサイード氏も触れているが、ルイ・マル監督の映画『恋人たち』に使われて大変有名になったものである。わたくしも15年以上前に見たはずだが、今でもはっきり覚えている。)をそのままピアノ独奏に編曲しただけなのに随分印象が違う。
わたくしが聴いたのはエマニュエル・アックス氏の演奏だが、これは演奏のせいもあろうが冒頭の主題からして、毅然とはしているが、えらく無愛想でそっけない。堅苦しいとも言える。弦楽版に見られるロマンをほとんど感じず、むしろ非常にストイックな音楽に聞こえる。繰り返し言うが、これは、演奏の特徴かもしれない。
ところが、サイード氏が最もこだわっていた第4変奏の部分に入ると、アックス氏の演奏も様相が変わってきた。この第4変奏での転調の様子が弦楽版(スターン氏、マ氏らによる演奏も参照した。)よりも鮮やかに、恐ろしいほど心に奥深く落ちていくのである。ここで初めてこのピアノ曲がオリジナルの弦楽曲と同じものでありながら、よりプライベートな形で語られているのだ、ということに気付き始めた。転調後、曲はいっそう穏やかに、親密でありながら、感情の裾野を広げていくように、そして、これといった終わりの身振りもなく、あっけなく終わってしまう。
この転調後の演奏は、アックス氏のピアノもとても情感がこもっている。こんな演奏になるとは思っていなかった。アックス氏は、転調を劇的に演出するために、全体の演奏を解釈したのだろうか?
いずれにせよ、この演奏はわたくしには十分に啓蒙的ではあった。ただ、曲の持つ情感には、更なる可能性も感じたのである。
このCD。1989年の録音だが、スターン氏、ラレード氏、マ氏らによる弦楽六重奏曲前2曲とアックス氏による『主題と変奏』が2枚に収められていて、聞き比べに最適です。今この形で出ているかどうかわからないが、レコード番号は、(SRCR8874〜5)。
しかし、サイード氏は同じくだりで執拗に回音(ターン)にこだわっているが、どうしてだろう。わたくしなどは、回音の持つ楽理的な意味はよくわからないが、もともと、西洋式のコブシの表現の一形態のようなものかと思っていたが・・・・

で、実は、サイード氏の『音楽のエラボレーション』と思わずじっくり付き合っていて、先週エリア・カザン氏のことを書いたのを思い出した。この本の第2章で、サイード氏はカザン氏の場合と共通するところもある、ポール・ド・マン事件のことに触れていたのだ。
ということで、第2章も読む。
改めて沈思黙考させられる文章だ。わたくしが、カザン氏のことを印象風にであれ、まだまだ図式的に理解しようとしていたことを思い知らされた。
もう一度カザン氏について触れたいが、わたくしが『理由なき反抗』のニコラス・レイ監督と比較したのは、専ら映像作家としての側面である。演出家、俳優術指導者としての側面については、わたくしは多くを語れないからだ。ただ、アカデミー賞の受賞式の折も、ロバート・デニーロ氏やウォーレン・ビーティ氏など直接演技指導を受けた俳優たちがカザン氏を慕うのは、見せ掛けだけのことではあるまい。カザン氏は転向をしたが、それでは、カザン氏の演出理論、人間観にかれが嘗て信奉した共産主義の残滓はないのか?あるいは、信条を破棄して合衆国に忠誠を誓ったことが、その後のかれの世界観の基礎なのか。そして、共産主義者だった仲間を裏切って合衆国に忠誠を誓ったことが、人道に反することで、それは、未だに免責されるものではないと主張する人々は、カザン氏が転向後に描いた合衆国の姿も虚偽の姿であり、かれの指導した演技のありかたも人間の道を外れていると言いたいのか?
赤狩りに際して転向せず、国外で、変名で作品を発表し続けた作家たちが、次々復権している。ただし、これもどちらかというとヨーロッパなどからの評価に追随した形だ。それもこれも、合衆国において共産主義はマッカーシズムによって根絶やしにされたわけではないからであるとわたくしは思っている。
わたくしは、むしろ合衆国に取り込まれた共産主義が、例えば合衆国の文化産業をどのように支えているのか?この点を探っていく必要を感じているのだ。

しかし、サイード氏の文章は、翻訳で読んでも(大橋洋一訳)、まるで音楽を聴いたり演奏したりするような感覚に見舞われる。頭が気持ちよい。

     

<2003年11月の日日覚書はありません。>

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