| 2004年1月15日(木) 元旦、父に居合の型を見せていただいた。
わたくしは、何を見せていただいているのか、不思議な思いであった。
殺陣の稽古とは決定的に違う何かではある。
昨今、武器とは何か?暴力とは何か?考えていたところである。
思えば、映画やTVでもここ数年の剣劇、マーシャルアーツ・アクションの多さに正直なところかなり戸惑いを感じていたのである。
わたくしは、今までどちらかといえば、映画などで暴力を描くことを、積極的に擁護してきた方である。映画を作ることは、実際に身体を使った訓練と表現を必要とする。観る者は、役者さんたちがどれだけ身体と向き合っているかを、フィルムの表層から感じとり、役者さんたちの身体性と自らの身体性とを想像力で結ぶことは快感でもあり、意義深いことだと考えていた。
しかし、それにしても映画の初期からある銃撃戦よりも、剣劇のイメージが溢れかえっている現在の状況をどう捉えたらよいのだろう?
ただ、アクションのネタが尽きてきたというだけではあるまい。
父の演武は、既に公的には武器として認められなくなった日本刀を、ただひたすら実際に使用しないためにのみ行われる精進、錬成である。
わたくしは父が、父という人間ただ一人のみが日本刀を捌きうるだけの、ぎりぎりの空間としてしつらえた広間で、父が刀を振るのを見るのは初めてである。
恐らく、父より10cmでも背の高い人では、刀は捌ききれない。また父も己の刀ではない長身の刀であれば捌ききれないであろうし、何より、刀に十分慣れ親しんだものでなければ、練習するにも向かない場所である。
その父がただ己のためにのみしつらえた場所で、黙々と刀を振り捌くという行為に、何か感じ入るものがあった。
武術が現代に生きる姿を僅かだが感じたような気がしたのである。
そんなことを漠然と考えていると、一昨年の映画『たそがれ清兵衛』の主人公、清兵衛が小太刀の達人であるという設定に、今更ながら唸らさせられるのであった。
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