ご覧、パレードが行くよ。


映画『ミスティック・リバー』

        2004.2.12 Wac@映画生活に投稿  2004.2.14補筆


面白い。全神経総動員。頭と心が直結したり、ねじれたり。いずれにしてもフル稼働。
何故かと言えば、リズムのせいか?

当たり前だが、映画は、映画が見せたいと思うものしか見せてくれない。ところが、それが見せたいものだったというのも、観た時には気付かないことだってある。
折角見せてくれたものも、後から後から重大なものだったことに気付き、イメージが堆積していく。
排水溝が、テラスが、ホッケーのスティックが、エミィ・ロッサム氏の瞳が、乗用車の後部座席が。
そして、省略されたのが、25年か、15分か、3時間か、30秒か、そのどれもが気になってくる。
登場人物のすべてが、少しずつ、それぞれ違ったペースで印象が変わってくる。

どうせ、行ったこともないアメリカ大陸の何処かの街の、知らない人間の話だ。登場人物の多くは、よく見る映画スターたちだ。こう言っちゃなんだが、見慣れない役者ほど、わたくしにはよそよそしい。
ところが、あれよあれよと言う間に、一人ずつに興味を持ち始めている自分がいる。ショーン・ペン氏が演ずるジミーは、出てくる度に様相が異なっていて、この男のことをもっと知らないと怖いぞ、と思えてくる。

ストーリーの先が知りたいのではない。
出来事はすべて唐突に報告される。
そんなこと、待ってはいられない。待ってはいられないというのは、未来の展開を予想することではない。予想が最早不可能なのは明らかである。そんなことより未来に何が起こっても、その事態を間違いなく受け止められるよう準備しなくては。
出てくる男たち女たち、こいつらはいったい、どんな過去、どんな思いを持って、今そこにいるのだ?推理よりも謎解きよりも、背景に想像が膨らんでいく。

トーマス・ギーリー氏の演じるブレンダンという少年。あっという間に顔のイメージが変わってくる。
ティム・ロビンス氏は、そもそも見慣れた風情と全く違って見えていたが、それにしても何を考えているのか分からない。常に隠そう隠そうとしていることと、奇妙な率直さが、突如同時に出現したりする。
ケビン・ベーコン氏が、生まれ育った地区に対する違和感を消極的に放っていて、事件に対する温度の低さが、またわたくしに捜査の進展や事の真相よりも、この街の真相をよく知らなければ、と警戒感を抱かせる。ローレンス・フィッシュバーン氏は、鼻っから偏見の塊のようで、事件の解決など望むことを忘れて、これ以上悪いことの起こる事のないよう、祈るばかりだが、改めて思い返すまでもなく、既に救いがたい事件は起こってしまっているのだ。
イーライ・ウォーラック氏(襲われた酒屋の店主)を出してきたのは、何という按配か。懐かしい顔に、出てきたとたんに親近感を持って話を聞けた。
が、ここは、しっかり聞かねばなるまい。
街の病巣は、想像を絶するほど転移している。

ただ、街全体が腐敗しているというのは、よくある話である。
一番見えてこないのは、マーシャ・ゲイ・ハーディン氏とローラ・リニー氏の演ずる従姉妹同士の妻たちだ。これがよく分からない。ハーディン氏が潜在的に怯える何かは、わたくしたちの前に姿を表すのだろうか?

しかし、ある時点で分かってくるのは、この男たちには最早解決能力などないということである。
真犯人が見つかるかもしれないことも、ことが更に悪化するだろうことも単なる成り行きでしかないかもしれない。

ここまでは、何となく分かってきた。
しかし、事態の鍵を握るのは、やはり二人の妻だった。
二人の妻の意志だけが、事態を収拾しようと、あるいは、事態を温存しようとする力をはっきりと行使する。

パレードの日、初めてわたくしは、誰に感情移入したらいいのか慌てふためいた。さっきまで、適度に傍観していたツケが回ってきたようだ。ところが、それは誰についたところで、いたしかたのない事態の深刻さが明らかになっただけのことだった。

米国の近現代を代表する作曲家のチャールズ・アイヴス氏が作曲したオーケストラ曲『祭日』という曲※1を思い出した。例えば、「独立記念日」を描写しながら、複数のパレードが同時にあちこちから聴こえてくる分裂した作品である。


「ミスティック・リバー」で描かれるパレードは、一応一つの隊列に見えるけれど、パレードを見つめる家族の有り様は、救いがないほど引き裂かれている。合衆国人民の個人の有り様が、夫婦へ、親子へ、家族へ、友人へ、地域へ、街へ、そしてそれが、恐らく州へ、国家へと繋がっていくだろう最も核となる「自己責任」という名の原理へと凝縮されて描写される。

なかでも女たちは、この「自己責任」の重さを心に刻みつけ、男たちは、今一度、確認し合う。




合衆国とは、どのような国であり、またどのような国でありたいのか。そのことを、これだけ率直に語ってくれたこの映画にわたくしは身の引き締まる思いだ。合衆国がまさに岐路に立たされようとしているからなのか、この映画は、かつての合衆国映画から際立って屹立しているようにみえる。しかし、『ミスティック・リバー』は合衆国の神話的映画のさいはての地平に来てしまっただけなのだと思う。

イーストウッド氏が2000年のヴェネチア映画祭シンポジウムで、1943年の西部劇映画『牛泥棒』※2に対する共感を語ったことが、劇場用プログラムに引用されているが、『ミスティック・リバー』だけでなく、合衆国映画には、皮肉ではなく率直さゆえに苦く、神話的単純さを持った映画があったのだ。合理的な疑いを越えた罪(有罪判決の下された犯罪)以外にも暴力の連鎖が絶えない合衆国。これらの映画は、法治国家としての合衆国の建前を、瞬時に瓦解させる面白さでわたくしを魅了してきた。ジョン・フォード監督のやはり西部劇『リバティ・バランスを射った男』などもそうだろうし、異邦人であるジャン・ルノワール監督やフリッツ・ラング監督が合衆国への愛憎を込めて描いた「合衆国映画」群などにも通じるところがある。※3

イーストウッド氏はすべてを映画に委ね、腹を割って、自分が言えることはここまでだというギリギリのラインを世界中に見せてくれた。
実はこの事こそが、わたくしが先日観た映画『息子のまなざし』※4に足りないと思ったものである。テーマが深刻である場合、テーマに沿った表現方法を模索することが、かえって表現方法にモラル的(個人的ではないということ)な不自由さをもたらしてしまう。わたくしが『息子のまなざし』を面白がれなかったのは、この例ではないだろうか。翻って、『ミスティック・リバー』でイーストウッド氏は、手馴れた流儀で臨んだからからこそ、極めて個人的な次元まで見解を掘り下げていくことができたのではあるまいか?
その苦さゆえ、こんな事は映画で表現すべきことではないという向きもあるかもしれないが、それを表現しようとしたことは、クリント・イーストウッド氏が映画に全幅の信頼を寄せているからであろう。
だからこそ、映画の表現に持って回ったところがない。一切の無駄がないのもこの映画の特徴だ。

例えば、最近では、『イン・ザ・ベッド・ルーム』という映画※5もあるいは少し似たようなことを云わんとしていたかもしれない。だが『イン・ザ・ベッドルーム』は表現に隙がありすぎてわたくしにはパロディのようにしか見えなかった。これは、僭越だが単純に監督の未熟さ、映画的鈍感さから来ているとわたくしは感じた。スコープサイズに不必要なものが写りすぎていて、個人の感情と地域の環境を繋ぐものが失われてしまっているのである。個人のアップによる1ショットを多用した心理劇にスコープサイズは無用に思えた。折角生活感のある地域の描写を入れても、舞台劇に風景の説明が入ってくるようにしか見えなかった。また、心理ドラマからフィルム・ノワール風の冷静な犯罪劇に移り変わっていくのも整合感に欠いた。
『イン・ザ・ベッドルーム』を引き合いに出したのはテーマの類似性とスクリーンサイズが同じだからだが、印象はあまりにも異なる。新人監督の作品とベテラン監督の作品を比べるのは少々酷だが、『イン・ザ・ベッドルーム』と比較すると、『ミスティック・リバー』が、撮影の技法から、話法の様式、俳優の扱いにおいてまで全く対照的な簡潔さを持っているということが鮮やかに浮き彫りになる。

わたくしは、イーストウッド氏が伝えたい画面を、1カットも疑いなく受け止めることが出来た。というより、画面が何を見せたいのかで迷わされることがなかったと言った方がよいかもしれない。パナヴィジョンレンズで捉えられた画面は、スコープサイズの隅々まで、余計なものを削ぎ落とす。登場人物の揺れ動く心情に観客が流されることのないように、一人の心情溢れるシーンでは、のっぴきならない人物が2ショットで収められ感情が分散させられる。芝居の行われる場所、セット、ロケーションが編集だけで表現されることなく、常に現場の空気が捉えられる。
シナリオは出来うる限りプロットの骨組みのみに切り詰められ、因果関係や動機を、物語の構造にしないよう配慮される。だから、俳優たちはどんな場合でも写った瞬間にその人物であるように徹底した役作りが必要だ。逆に言えばイーストウッド氏は、それだけこの一級の役者たちに篤い信頼を寄せているのであろう。イーストウッド氏の制作態度は単純明快な伝統的映画話法の固持にも見えるし、一方でその崖っぷちの誠実さは、合衆国の最前衛といっても過言ではないかもしれない。アンチ、とかカウンターとかではないただ一人っきりの最前衛。それに賭けた、俳優、映画人の信頼は、モラルを越えた絆だ。

世界中の映画が、これにどう答えるのか楽しみだ。
もちろん、他人事ではない。
わたくし自身が、合衆国をどう受け入れ、日本国はこういう国であるというヴィジョンを、どこまで率直に語りうるのか。

随分、大げさな話だが、それほどまでに騙されてしまった自分がいることだけは確信できる。
既に登場人物のすべてに興味をもってしまった自分がいる。
かれら、かの女らの人生を、わたくしの心の赴くままに想像してしまうのだ。それらの誰に思いを馳せても、いたたまれない。だからといってこの映画が悲観的過ぎるとか、運命論的だとかは思えない。ただ、実在しない人々と、その恐ろしくも興味深い境遇を、確かすぎる幻として出会った事で、イメージの扉が開かれてしまった。こんな映画に出会うということは、ちょっとそら恐ろしい。

だから、好きか嫌いかなど言及する気にもなれない。
感動したかどうかも言いたくない。
ただ、フィクションという表現に改めて最大限の敬意を表したい。



◆◆◆◆◆ この映画は物語上の省略が非常に興味深い仕方でなされています。ゆえに、観客の受け止め方によって、いろいろな物語を想像することが出来るのではないでしょうか。

わたくしは、特にセレステ(マーシャ・ゲイ・ハーディン)が夫であるデイヴ(ティム・ロビンス)を何故疑ったのか、という点の説明が省かれていることにたいへん興味をもちました。

そこで、セレステを中心にわたくしが想像した物語をこちらに記してみました。映画をご覧になった方は参考までにどうぞ。◆◆◆◆◆

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映画『ミスティック・リバー』(2003、クリント・イーストウッド監督、Mystic River
2004.2.11. 新宿ピカデリー2にて


















































































※1 
チャールズ・アイヴス Charles Ives(1874-1954)の『祭日(New England Holidays)』は、「ワシントンの誕生日」「戦没将兵記念日」「独立記念日」「感謝祭」の4曲をあわせて1曲の交響曲とした時に呼ばれる名称。わたくしは、特にこの映画を観て、「戦没者将兵記念日」と「独立記念日」の2曲を想起した。「独立記念日」はわたくしが幼少期、現代音楽的なものに触れた最初の作品である。アイヴスは趣味で作曲を行っていた珍しい人物で、「独立記念日」は1913年に初演されているが、ヨーロッパ的な音楽理論の発展と随分隔たった作品だ。耳慣れたパレードの旋律が、同時にいろいろな方向から聞こえてきて、立体的な響きを聞かせる。改めて聴き直したが、『ミスティック・リバー』から受け取る感興と非常に似たものを感じた。




















※2 『牛泥棒(TV公開タイトル) The Ox-Bow Incident』(43、ウィリアム・A・ウェルマン監督)


※3 『リバティ・バランスを射った男』(62、ジョン・フォード監督)

ジャン・ルノワール監督(仏出身)のアメリカ時代の作品の例として
『スワンプ・ウォーター』(41)
『浜辺の女』(46)
フリッツ・ラング監督(独出身)のアメリカ時代の作品の例として
『ビッグ・ヒート 復讐は俺に任せろ』(53)
『合理的な疑いを越えて(条理ある疑いの彼方に)Beyond a Reasonable Doubt』(56)

を挙げておこう。


※4 『息子のまなざし』(2002、ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督)

※5 『イン・ザ・ベッドルーム』(2001、トッド・フィールド監督)

『ミスティック・リバー』と『イン・ザ・ベッドルーム』は共にスコープサイズ(画面の縦横比が1:2.35)だが、撮影方式が異なっている。『ミスティック・リバー』は横幅を圧縮するアナモフィック・レンズによる「パナヴィジョン」。『イン・ザ・ベッド・ルーム』は、高画質のスタンダードサイズに丸ごと定着しスコープサイズにトリミングして上映する「スーパー35方式」。これは結果が同じサイズでも、演出的には異なった取り組みが必要となるであろうとわたくしは考える。



映写方式、撮影方式について興味のある方は、こちらのサイトがお薦め。
『りおなのVIVA! WIDESCREEN』

わたくしもこのサイトでいろいろ知ることができました。




















引用した写真は、本作の米国公式サイトより。
写真のサイズは、映画の画面サイズと異なります。

       

       
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