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テクノロジーの分有と映画史の堆積
映画『ヴァンダの部屋』 2004.4.9. Wac@映画生活に投稿 改稿2004.4.14
長くも、短くもない、とある三時間。
日常の生活の中で、時間の感覚を麻痺させられていたことに、じわじわと覚醒させられてしまった三時間。
さて、この三時間の間に何が起こるのかといえば、生起消滅を繰り返す物質の法則のみ。と書けば、もしかしてネタバレになるのかも。もとよりドラマティックなことが仕掛けられている訳ではないが、影を見ているだけなのに、「現前する」と見紛わせるドラマトゥルギーが、瞬間毎に立ち上がる。
何故、コスタ監督は、この場所に惹かれていったのか?
積み重なる映画美学史への贖罪からか?
キャメラによって魂を抜かれていない極稀な者たちへ寄り添うことで、キャメラが再び単なる道具へと戻るための儀式としてか?
照明というものに慣れすぎた眼には、恐ろしく深い闇であり、また深い光である。
フェルメールやレンブラントのようでもあるし、サイレント期の映画の最も力強い魔力も秘めている。
物凄いテクノロジーを手にしてしまったのですね。
しかし、生まれた時から、ヴィデオと戯れてきた者たちとは、根本的に異なる苦悩の跡こそが、この映画の最大の根だ。
小川プロでさえ、プロダクション丸ごと移り住み、生活を共にすることでしか獲りえなかったヴィジョンというものがある。写し、写されるというのは、どこまでもそういうものであったはずだ。
しかし、コスタ監督は、一人あるいは二人といった単位で、その地に入り込む。
この経済的差異は、破格に大きい。
共同体映画を志向することなく、あくまでも、作家の映画、その表現の歴史に耐えた映画たらんとする意志がみなぎっている。
そしてその意志が、空気を謳歌している。前作『骨』にあった重苦しさが消えて、開放感さえ漂っている。
しかし、美しすぎるのだ。どうにも。
重機によって解体されていく住居の出す、悲鳴のような騒音でさえも、甘美すぎる。
この監督は、当然ノイズの美学的聴取も身につけてしまっている。『骨』の中でパンクバンド「ワイアー」の紡ぎ出すノイジーなリフの反復を聴いた時に感じた感覚は、この作品にもはっきり持続されている。
DATで街の音を集音したことのあるものなら、その甘さに無自覚であるわけにはいかないだろう。
この作品は、ポスト・プロダクションに恐らく尋常ならざる注意が払われている。
それが、この三時間に無窮動の魂をもたらしている。
巧みな、そして考え抜かれた編集。音響編集や、ミックスもまた同じである。
ほとんど、絶対映画、純粋映画というにふさわしい隙の無さが、この映画を近寄りがたいものにしている。
作家の映画もやはり、純文学や現代音楽の轍にはまっていくのか?
この映画を、わたくしは他のあらゆる映画と同じように、出来るだけ政治的な判断から遠ざけたい。此処で言う「政治的な」というのは、ヌーベルバーグの基礎となった「作家主義」(La
Politique des Auteurs)の「政治」のことだ。
だから、わたくしは美しすぎるものの退屈さ。そして、厳格なスタイルのもつ「政治的な」押し付けがましさにだけは、不平を漏らしておきたい。
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映画『ヴァンダの部屋』(2000、ペドロ・コスタ監督 No
Quatro da Vanda)
2004.4.3.渋谷シアター・イメージフォーラムにて
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この映画は、ポルトゥガルはリスボンの貧民街フォンタイーニャス地区で撮影されている。
コスタ監督の前作『骨』(1997)に女優として出演したヴァンダ・ドゥアルテさんの生活するベッド一つだけの部屋を中心に取り壊されつつあるファンタイーニャス地区の生活を描く。ドゥアルテ姉妹は時に野菜を売り歩いたりしているように見える時もあるが、ほとんど部屋で麻薬を吸っているだけである。前作の大人数の撮影体制に疑問を感じた監督が自らディジタルのヴィデオ・キャメラを回し、録音技師など最大3名でこの地区に住み込み、ドキュメンタリーともフィクションともいえない表現で、構成されている。2年間で130時間の素材が撮影され、1年かけて編集された。
ここで用いた「現前(présence)」という用語は、現代演劇哲学の用語から参照した。(例えば、アンリ・グイエ氏など)舞踊なども含む現代劇場芸術において欠かせない概念である。これに対し、映画は物質しか表さない芸術であるという考え方があるが、これらは必ずしも対立する概念だとは思わない。映画は「イリュージョン」であり「現前」でもある伝達形式だからである。よって、映画を論じる際、専ら美学的見地のみから語るのではなく、ドラマ論としても語る必要があるとわたくしは考えている。
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