神話的時間とでも言いましょうか?
映画『許されざる者』(1992) 2004.3.19. Wac@映画生活に投稿 改稿2004.4.13
奇特な映画館があって、今ごろ上映してくれるものだから、ヴィデオで観ずに我慢してきた甲斐がありました。
圧倒的映画体験。
それもこれだけ本格的な西部劇を観るのは一体何年ぶりでしょうか。
しかし、後味の悪さもまた形容しがたいものがあります。
そりゃあ、『捜索者』※1でも、『大砂塵』でも、いや、『リバティ・バランスを射った男』でさえ、後味は悪いけれど、これほどではない。
主人公の悪党を、監督イーストウッド氏が自ら演じているのだからそうならざるのを得ないのは必定だ。
イーストウッド氏は、真正のヒーローだし、否が応でも感情移入させられてしまいます。
わたくしは俳優イーストウッド氏のファンではないし、辛気臭い顔も、あの力の入らない声も嫌いです。でも、ヒーローとして撮られているのは明らかです。
豚や馬と格闘する滑稽さもそうだし、女に介抱されたあと彼方に広がる雪景色に陶然とさせられ、主人公の輝きに最早抗う力を失います。
ただ、悪党が主人公だから「アンチ・ヒーローもの」だと、簡単に言えないものがあって、戸惑ってしまいます。
舞台は1880年ごろですが、この映画が真正の西部劇だと思うのは、歴史ではなく神話の時間のようなものが流れているからでしょうか。
しかし、主人公とキッドが町外れの木の傍にいて、女が馬に乗ってやってくる場面の時間を何と形容したらいいのか分かりません。
時間をかけて咀嚼していく他ないですね。
女たち
たまたま、同じ日に観たのが韓国のイム・グォンテク監督の『酔画仙』(原題 2002、日本では劇場未公開)という映画で、この作品が、『許されざる者』とほぼ同じ時代の朝鮮を描いているものですから、余計に意識させられたのですが、この両作品とも、出てくる女性が、娼婦(『酔画仙』の場合は正確に言えば芸妓と娼妓、身分で言えば妓生ですが)ばかりで、その世界観になかなか馴染むことが出来ません。『酔画仙』は主人公が賎民であり、その交友関係から必然的な描き方ではあるし、明確な歴史解釈を感じたので、歴史的なフィクションの表象として理解できましたが、『許されざる者』の場合、歴史認識の必然性から女性の職業を娼婦に限定したというより、物語構造の必要性から女性たちを娼婦としたように感じました。
そういえば、マーティン・スコセッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2001)も、時代は更に遡りますが、女性はみな娼婦たちでした。
ここで、わたくしは歴史的事実について考えたいわけではありませんが、物語の構造に女性はみな娼婦という設定が用いられたことには、何らかの意図を感じます。
モーガン・フリーマン氏の演ずる役の妻は先住民で、主人公の妻は、物語の最初から不在としてのみ語られます。
その上で、「娼婦を人間として扱え。」というセリフがある訳ですから、これは重大な問題だと思います。
また、武器の携帯について、このように独自の設定を持つ西部劇も極めて稀で驚きました。(実際には時々見受けられますが、このように作劇の根幹になっているのは珍しいと思います。)
主人公の妻とは何だったのでしょうか?解けない謎なのでしょうか?
それにしても、西部劇とは、謂わば建国神話でもあるわけですが、合衆国の多くの物語にある苦さを、まともに受け止める準備は、まだわたくしには出来ていないようです。
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映画『許されざる者』(1992、クリント・イーストウッド監督 Unforgiven)
2004.3.18.テアトル・タイムズスクェア、レイト・ショーにて
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