映画が息をしている


映画『かげろう』

        2004.3.4. Wac@映画生活に投稿  




アンドレ・テシネ監督作品をプロモーションするのは、さぞや難しいことだろう。前作の『溺れゆく女』というタイトルは、わたくしは今でも失敗だと思っている。『かげろう』の場合は、タイトルはともかくエマニュエル・ベアール氏と新星ギャスパー・ウリエル氏のエロティックな情交シーンをポスターにしたのは、やや疑問だ。名作『私の好きな季節』は、『背徳のささやき』というタイトルでヴィデオ化されているそうだ。およそ作品のイメージとかけ離れている。

『かげろう』はエロティックか?情交シーンは全く予想を越えた展開でびっくりしたが、全編に渡って展開されるドラマは、人間の自我を形成するセクシュアリティの揺らぎをスリリングに見つめ続ける。
ドキュメンタリー風や素人を使った映画では、絶対に表現できない、一級の俳優の生理を知り尽くした演出。きめ細かい人間観察に基づく描写は、確かに日常経験することのない、少し危険な匂いを放っている。

主演のエマニュエル・ベアール氏は児童ポルノの廃絶運動に熱心な方だそうだが、この映画で描かれるベアール氏と17歳(設定上)の少年との情交は、まさに人間の成長と、性的なアイデンティティの確立を真摯に考えた結果の表現となっている。この微妙なテーマを恐れずに表現することはたいへん勇気のいることだろう。
エマニュエル・ベアール氏は、集中度の高い細やかなパフォーマンスを発揮している。
相手役のギャスパー・ウリエル氏の神秘的な魅力は本当に素晴らしい。ブノワ・マジメル氏をも凌ぐ近年最高の逸材かもしれぬ。


様々な世代が直面する成長の痛み。その性的な側面にも感心のある方には、ぜひ観てほしい。


俳優と共に呼吸する楽しみは格別なものがある。


もう少しこの映画の核心について語ってみよう。


いつもながら、アンドレ・テシネ監督の映画は、その魅力について語るのがたいへん困難だ。しかし、この充実感はなんだろうか?テシネ監督の映画は、恐らく栄冠に輝くような評価のされ方はしないだろうし、恐らくヒットもしないだろう。この作品を観て思ったが、フィルモグラフィーに美学的な一貫性があるわけでもなさそうだ。だから、作家性に惹かれる固定ファンもそれほど順調に増えていくわけでもないだろう。だが、とにかくちょっと他の映画では感じられない特別な面白さに溢れている。見終わった後も長らく尾を引く、この不思議な感覚。これを何とか言葉にしたい。でも誰にでも伝わるというものでもないかもしれない。いずれにしても、この映画に感動してしまったこと自体が、わたくしを動揺させるのです。
テシネ監督がほぼ一貫して扱ってきたテーマは、あまりにも危うい。恐らくかれは、人間があるアイデンティティーの危機に陥った時に、セクシャリティーの壁に直面し、その際に起こる葛藤を乗り越ようと新しいアイデンティティーを模索する、この過程で起こる様々な感情を描き出すこと、このことに異常な執着を示してきた。
「かげろう」は第2次大戦中のパリ陥落後、パリからフランスの田舎に逃れてきた数名の物語だけれど、それは、歴史を描くためではなく、ただそのようなシチュエーションが面白いと感じたのに過ぎないだろう。
逃れてきたのは、30代の未亡人とその子どもたち(13歳の男の子と7歳の女の子)。教師をやっていたらしいその母は、そのあまりにも自律した精神を失っていく。そこを野生的な自活能力を持った17歳の少年に助けられるところから物語が始まる。
この世代の組み合わせが、人間の社会性の均衡を大きく揺さぶるのである。
13の男は母と妹を守ろうと、背伸びし、青年と男同士で向き合おうとする。17歳の青年は生き延びる術を瞬間毎に身につけて成長していくが、同時に生命体としての急速な成長と、自らの性の自覚にうろたえる。母は、これまで積み重ねてきた規律を打ち壊して、新しい段階に進まなければ生きられないことをなかなか受け入れられない。7歳の少女は、この危うく壊れそうな張り詰めた均衡を、無邪気に掻き乱す。

ある意味で現実離れしたシチュエーションだが、そのためにこの様々な世代の人間が、自尊感情、羞恥心、外界への純粋な好奇心と向き合いながら新しい自我を確立していく発達心理学的な実験を見せられているようでもある。

だが、わたくしにとってこの映画が単なる実験のようにみえると言っている訳ではない。むしろ、リアルな擬似体験のようである。何しろ緊迫した臨場感にあっという間に引きずり込まれる。これが、テシネ監督の演出家としての突出した力量によることは間違いない。とにかく映画自体が息をしているのである。

さきほど、美学的一貫性がないと書いたが、それは、テシネ監督が度々、撮影監督のコンビを変えていることによる。また、わたくしにはテシネ監督はフランスの監督にしてはパナヴィジョンによるスコープサイズを好んで採用してきたという印象を持っていたが、この作品は全く違うアプローチである。
撮影監督は、クレール・ドゥニ監督とのコンビで知られる女性の撮影監督アニエス・ゴダール氏である。この撮影が強烈なインパクトだ。サイズはヨーロピアン・ヴィスタだが、何よりも背景を切り詰めて、俳優にこれでもかと肉薄していく気迫が尋常ではない。俳優の生理が生々しく迫ってくる。
これまでのテシネ作品だと室内に漂う空気とか、突如現れる広大な光景に、観ている側も自然と呼吸を任せることができたが、この作品はそういう意味では、かなり息苦しい。俳優たちが必死に生きようとしているところに、観ている方もいきなり直面させられるのだから。おまけに、舞台となるフランスの田舎の森は鬱蒼として生命が溢れている。
そんな中で、17歳の青年役を演じる実年齢19歳のギャスパー・ウリエル氏は、野性的だが無駄のない流れるように優雅なその立ち振る舞いで、一瞬にしてわたくしを魅了してしまう。
ウリエル氏が画面にもたらす躍動は、黄金色の麦畑を呼び込み、俳優たちに纏わりつくキャメラに鮮烈な風を招き入れる。
基本的にキャメラは、俳優の生理にしっかり寄り添ったままドラマは進行していくが、俳優の背後にさりげなく、だが果てしなく広がる大自然に、時に深呼吸することを許してくれる。

このタッチが『かげろう』の基調になっている。
むせ返るような生命の横溢する空間で、繰り広げられる俳優たちの探求の旅。ここが、一見演劇でも実現可能なような設定を、決定的に映画的なものにしてしまうテシネ監督の映画演出の醍醐味がある。

エマニュエル・ベアール氏は、『深夜カフェのピエール』以来12年ぶりのテシネ映画出演となるのだけれど、女優にとっても、テシネ作品に出演することは特別なことなのではないだろうか。カトリーヌ・ドヌーヴ氏もジュリエット・ビノシュ氏も女優としてのキャリアの岐路とも言える時期に、間をおいて再びテシネ作品に出演している。
女優としてのアイデンティティの再確認のために、テシネ演出のマジックは何か特別なものをもたらしてくれるのかもしれない。
ベアール氏には、2本の作品の中で「失禁」というモチーフが繰り返されている。これは決して大げさな仕掛けではないが、奇妙な引っ掛かりとして印象に残る。
テシネ作品がもっている極めてパーソナルな手触りは、俳優という職業人にとっても、映画というメディアを通して出会うわたくしにとっても、アイデンティティという己の核を揺さぶり続けるのだろう。





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『かげろう』(2003、アンドレ・テシネ監督 Strayed/Les Égarés
2004.3.1.(映画サービスデー)シネスイッチ銀座にて



















『溺れゆく女』
(1998)
『私の好きな季節』
(1993)












































































































『深夜カフェのピエール』(1991)
       

       
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