思わぬ収穫 −国民的猥褻讃歌−

映画『ジャンダラ』

   2003.6.25 Wac@映画生活に投稿、 改稿2003.9.13


あまりにも、猥らだ。
エッチとかエロスとか、最早意味が暴落してしまった言葉は、この映画には当てはまらない。
性交そのものを浮き彫りにする、怒涛の物語に胸が熱くなってしまった。
この呪われたような猥褻を、心底賛美したい。
人間の存在と運命をすべて丸ごと抱え込んだ性交。
生きていくため、逃れられない運命からもがき、逃げ切ろうとするように、人生をほんの一瞬でも自らの手で切り開こうとするようにのみ、為される性交。
戯れや娯楽、生活の潤いなどとは無縁だ。
勿論、性交そのものの描写に何ら過激なところはないですよ。
今どきの、露出度やあけすけさは必要ない。すべては物語を語ろうという強い意志だ。スタッフもキャストも若い人たちだけれど、しかも、タイのお国柄、誰も性描写の経験は少ないのだけれど、色彩も美術も撮影も芝居もみんな物語に奉仕して、結果、性交そのものを描ききっているのです。
素晴らしいなぁ。

タイのバンコクといえば、かつてエマニエル夫人が性の遍歴を始め、あのインチキそうな性の哲学者から薫陶を受けた地だけれど、あのあけすけなわりに観念的な性交はここにはない。
人間が交わることの手ごたえがあまりに美しく、あまりに悲しいものとして描かれることに、かえって勇気がわいてきました。

しかし、劇伴の音楽が少々くどい。なかでは、劇中のレコードが素晴らしい。後半に劇中で流れるアリア「私の名はミミ」のレコードにそれまでにはなかった陶然とした時代の退廃が聴こえ、わたくしの耳を捕らえて離さなかった。
エンドロールで確かめると、歌っているのは、ルクレチア・ボーリという人だ。
早速、調べてみると、20世紀初頭に活躍したスペインのソプラノだ。
エディソン・シリンダーにもこの「私の名はミミ」を録音していて、レコーディング第一世代の歌手であるようだ。しかもこの人、あのボルジア家の末裔だそうである。

こういう出会いは、本当に嬉しい。
映画全体にこういうセンスが活かされていたら、さらに入り込めただろうなぁ。

何か似たようなので、神代辰巳監督の『地獄』(1979)という淫乱の果てに地獄へ一直線な作品を思い出しましたが、あれはやはりカルト映画としてしか成立しえない世界です。この作品はこれでも、王道の手応えをたたえているところに愛らしい魅力を感じます。

例えば、『太陽の雫』なんかと比べてみる。

昨年公開された、イシュトヴァン・サボー監督の『太陽の雫』(1999)という作品も、なかなか悠然とした大河ドラマで物語性に富んだ作品でありましたが、親子三代に渡って、戦争と動乱の時代の中で、何とまぁ、いつもいつも発情してるんだろうと、可笑しくてなりませんでした。サボー監督の作風といえばそうなのですが、三代を三役で演じるレイフ・ファインズさんが熱演すればするほど可笑しい。かれがまた、いつもながら発情する役が多いので余計可笑しい。だいたいなぜ、そこまで執拗に性描写が必要なのかさっぱり分からない。
物語と性交に必然的な関係がどうも足りないとしか申しようが無い。
この点、この『ジャンダラ』は正反対でしたね。
やはり、タイが性に対するタブーが厳格だからこそ、性交そのものが物語を動かす原動力となり、描写にも切実さが宿るのか。
サボー監督のハンガリーなんか、以前から性描写が大らかですからねぇ。同じハンガリーのミクローシュ・ヤンチョー監督の全く、意味不明の裸だらけの映画を思い出します。
まぁ、別にどちらの文化が好きか嫌いかという話ではないですが、「軽さ」も「重さ」もストレートに表面化してしまうのが映画というものの面白さですな。

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『ジャンダラ』(2001、ノンスィー・ニミブット監督  JAN DARA
2003.6.23.テアトル新宿にて




























『エマニエル夫人』(1974、ジュスト・ジャカン監督)








Lucrecia Bori(1887−1960)、soprano































参照例:
『ハンガリアン狂詩曲』(1978、ミクロシュ・ヤンチョー監督

       

       
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