映画は民衆芸術たりうるか?今や。映画『HERO』
初稿 2003.9.10、Wac@映画生活に投稿, 改稿2003.9.13
始皇帝の文字統一を偉業と見なすか否かは、歴史家ではないわたくしの役目ではない。19もある文字の中から、どの文字を書くのか考え抜く趙の刺客残剣と、文字が19種類もあるのでは不便だ、統一しようと言う秦王との間に、物語の終わり、果たして同じ境地はおとずれるのだろうか?
一命を捨ててまで、王にメッセージを伝える刺客という存在自体が、民の心を見事にロマン化したものであろうことに異論はない。メッセージの中味こそが問題なのだ。
「剣を収める/収めさせる」ことこそ、太平の世を治める剣の奥義と、ちょうど今、NHKも大河ドラマの中で柳生宗矩に言わせている。その柳生但馬守宗矩は春先の映画『魔界転生』(2003、平山秀幸監督)では、勝負への未練が妄執となり魔界衆に転生させられておった。
何が娯楽か、主観はともかく、天下国家を扱えば、娯楽濃度は上るのよ。中国で『HERO』が興行成績NO.1を獲ったことには大いに驚かされる。かの国の人々の無力とロマンと願いの振幅に思いを馳せると、果たしてわが国の疲弊ぶりを慰労するにはまだまだ、「天下」のイメージに遠く隔たりがあるのではと思う。
チャン・イーモウ監督は素朴である。それは磐石の制作体制と幅広く機微に富んだ表現方法を手中にしても尚、変わらざるところであろう。民の心を掴む。その勢い。「天下国家」のイメージを中国人民は、捉えているのだと世界に向かって叫んでいる。民衆芸術こそ中国のオハコである。
映画が民衆芸術であることに耐えられなくなった国々、地域は増える一方だが、ここで見せるチャン・イーモウ監督のねばりと意地は見事に他国の芸術性を吸収、咀嚼していることだ。
最早どうしようもなく気取った形式と化してしまった、19世紀的なオペラの間合いを衒い無く活かす。
プッチーニのオペラ『トゥーランドット』を紫禁城で上演したチャン・イーモウ氏の経験は、プッチーニを超えてヴェルディまで辿り着く。王に詰め寄る兵士たちの声に、国土復興を背景にしたヴェルディ流のコロスの響きを聴く。
この上演の記録映画『トゥーランドット』(2000年、アラン・ミラー監督)の中で、チャン・イーモウ氏が、イタリア人の照明監督と意見が衝突して、絶対に譲らないところはあまりにも印象深い。オペラは微妙な陰影の照明を使うものだ、という現代オペラ演出の到達点から発言する照明監督に対し、色を鮮やかに出すには、京劇や歌舞伎のようなフラットで曖昧さの無い照明が必要だとするチャン氏。結局、照明監督が折れたが、この照明監督は、最後まで納得していなかったのが可笑しい。そりゃあそうだろう。現代の舞台芸術で、陰影は常識。ただその常識は、舞台芸術が気取ったものになっていく過程で形作られていったのではなかろうか。
映画においては少し事情が違う。極彩色はリアリズムより後期の様式で、黒澤明監督や、ベルナルド・ベルトルッチ監督が描いた色彩の世界はかえって、気取った趣きを感じさせるように思うが、チャン監督は、それらにも敬意を表する。
ベルトルッチ監督は最近、本作の撮影監督であるクリストファー・ドイル氏が撮影を手がけてきたウォン・カーウァイ監督の作品に随分刺激を受けてるらしい。いかにもベルトルッチ氏らしい進取の気質である。それはともかく、本作で、チャン氏とドイル氏は、ベルトルッチ氏とコンビで驚愕の映像美を生み出してきた撮影監督ヴィットリオ・ストラーロ氏のイメージをも呼び覚ます。ベルトルッチ氏の若き日の、そして全く完璧な映画と呼ぶにふさわしい『暗殺の森』(1970)が不意に召喚される。木の葉舞う中、地面を這うように進むキャメラは、『暗殺の森』の不吉なシーンから、本作での女性二人の情念の立ち回りへと美しく生まれ変わる。引用やオマージュなどと言っている訳ではない。当たり前のように、イメージが共鳴し膨らんでいくこと。監督が衒い無く、既成のイメージに磨きをかける。ここが、チャン監督の素朴さ、娯楽の王道たらんとする所以である。
このシーン。また木の葉の質感の何とも言えぬ優美。こんなところに執念を燃やすことこそ、映画の本懐。
いやだ、文章が淀長先生節になってきたわ。
それにしても、質感は、この映画の第一の美点と思う。雨に打たれる碁石、弓矢には鉄器の気配、砂に書いては消されていく文字、竹の重なりたる図書館、勿論、鏡面の如き湖水。
ここで、ワダエミ氏の器量がどうしても必要だ。かの女がこの大役を愉快げにやってのけた事はこの映画の、プロダクションアンサンブルの質的な驚異である。
この衣装。色彩は言わずもがなだが、この質感を何と言葉にしようか。もしかしたら、テクニカラーに色彩的郷愁を感じる文化とは、異質の感性がこれか?実は、衣笠貞之助監督のカラーから綿々とあるのがこれかもしれぬ。それでこれは、むしろハイヴィジョンにこそ親和性がある予感。パドメ・アミダラにもこのような生地を纏わせたかったものだ。この衣装芸術が映画に特有のものであることは重々承知のつもりだが、こんな神々しいエロスを舞台作品でも体験してみたいものだ。
タン・ドゥン氏のケレン味にはすでに馴染んできたつもりだが、今回のはぐっと引き締まっている。何よりも、無名、長空の心眼の戦いを紡ぐ琴の曲が絶品だ。素晴らしい。この場面、いきなりの一戦ではあるが、武術アクションとしては唯一の見せ場である。そこにこの名曲を持ってきたのは、ただごとではない。そうそう、イツァーク・パールマン氏とのコラボレーションはお約束だが、ヨーヨー・マ氏との時よりこれ見よがしにならずにすんだ。
後回しになったのが恥ずかしいが、勿論この映画は、俳優の見事なのがまず最初にくるべきだ。
トニー・レオン氏は、わたくし実を申せば、『恋する惑星』(1994、ウォン・カーウァイ監督)や『シクロ』(1995、トラン・アン・ユン監督)の時、虫唾が走るくらい苦手だったの。あのわざとらしい優男ぶりは、正視に堪えなかったものだから、ずっと敬遠してきたが、なんの堂々たる、孤独と苦悩ぶり、でもやはり、剣より書が似合うね。
マギー・チャン氏は今や、世界の至宝。顔だけでこれだけの情念、思慕、悔恨・・・いわば底なしの情の深さを、なおかつ絶世の気品で演じ切れる人は、世界中でも稀になってきた。
チャン・ツィイー氏は、話の都合上、『グリーン・デスティニー』(2000、アン・リー監督)の時の方がずっとエロティックだったが、最も現代人に通じる役なだけに、役不足とはいえまい。
それにしても各役者の配役、見せ方が巧みだ。先ほども申したように、ジェット・リー氏とドニー・イェン氏で格調高いアクションを見せる。後は、映像詩である。レオン氏の矢の嵐の中で書を書く孤高。マギー・チャン氏はかの女の表情と姿勢が芝居の要、ワイヤーの部分で多少体勢の無理も見えるが、衣装さばきはそれらを補って余りある。チャン・ツィイー氏は、少しかの女のモダンダンスの身のこなしが透けて見えるが、それも戦略。武術の極意に至らぬアクションの何たるかをそれとなく見せる。
要するに、見せるところと見せないところの目利き。そこが、『マトリックス』シリーズ(1999〜2003、アンディ&ラリー・ウォシャウスキー監督)との差。役者のトレーニングを見せても仕方が無い。
さてもうきりが無い。飛雪の頬を濡らす水滴や、秦王の前で揺れていた灯が止まる瞬間など、称えたい表現には枚挙に暇が無いが、わたくしは、この作品に満足して帰った訳ではない。
シャイクスピアや、プーシキン⇒ムソルグスキーのひそみをあえて避け、奥義を極めた英雄と王だけの話にした意欲は買う。
英雄のイメージが、伝説の生まれいずる過程のように変化する語り口の妙。英雄こそが、王に文武の合一を伝えうる、というロマンにも酔いたい。
ヒロイズムのコンセプトは、19世紀で潰えたどころか、芸能、スポーツに姿を変えて、今も世界経済を支えている。
だがしかし、文武の奥義が、天下和平を強い治世に託すことだとはやはり思えない。歴史劇を作ったつもりはないのだろうが、第三者の視点はどうしてもほしかった。
つまり、監督の歴史観にどうしても共感できなかったのである。
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『HERO』(2002、チャン・イーモウ監督 英雄)
2003.9.7.新宿ミラノ座にて
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